昭和45年2月20日 夜の御理解




 日々の、まあ反省の中から、いつもそれを思うんですね。ほんとに恥ずかしいように信心が出来ているようで出来とらんなあということを思うことがあるんです。人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしとまで厳しく言ってくださる事の中に、どのくらい人を、いうなら重く見たり軽く見たりしておることか。私、今、御祈念前に熊谷さんがその事をお届けされる。「今日は先生、じつはもう恥ずかしいことでした。こういう事で人を、危うく軽う見てしまうところでした」と。それは、まあ気付かして頂いてと言うてお届があったのを聞かせて頂いて、私もそれをちょうど思っておったそうでしたんですよ。ですから、ほんとにそうですもんね。ほんとにうかつにしておりますと恥ずかしいことですねと、言うたことですけれど。
 やはり私は、おおきなおかげを頂く為にはね、そのように目の詰まった信心が大事だと思う。自分という者はこん位のことではなくて、えーその、目の詰まった信心を致しませんとね、一番大事なところがその抜けていくしね、またはその、蟻の一穴から堤の、いわゆる堤防でも切れるという位ですから、どこがおかげの落とし、元の元にならんとも限らんのですよね。もうほんとに私どもが、ほんとになりきらなきゃいけないか、なりきるという事が難しいということを感じますね。
 今日はあの、久留米の教会で筑水連合会の信心共励会がございました。そっからもたくさん行かれて、帰りに皆ここに寄られましてから、その話をなさっておられる中にです、今日は「合楽から○○さん発表して下さい」とこう言われた。その○○さんというのが、わたしがその、もうその、なかなか熱心に信心が出来られますけれども、何かこう合楽の信心のその掴みどころというものをいつも間違えておられるような感じで、いつも話をされるんですね。いうならばちょっとピントの違った、その、ようないつも感じがするんです。あの人にそういうて言われましたけれども、その方が話されませんでしたという話をしておられます時にですね、「そら良かったですね、ほんなこてあなたが立ちなさるなら、袖引っ張るごたるですもんね」て言うてですね。ほんとにまあ、どうしたことを思うたり言うたりするんだろうかと自分で思ったんですよ。
 例えですね、例えば、あの、まあ私どもの聞いたところではです、それはなるほど私の信心とはずれた話をしなさる。話があんまり上手じゃないとか、人に受けるとか受けないとかといった、なるほど話してもらうなら合楽の信心を少しでも語ってもらいたいし、またはほんとに信心のおかげを受けておる、誰にでも訴えるような話をしてもらいたいというのは、まあ願いですね、私としても。ですからその人は、なら、そうではない。いつもピントの外れたような事を言わっしゃるけん、まあ話ししなさらなかったらよかったですね。ほんに、あの人が立ちなさるなら袖引っ張ろうごたると、言うた後にですたい、神様が話させて下さるのだし、もし話させてはいけんのならきょうのように、だいたいもう言うたらすぐでも話好きな方ですから話される方なんです。で、今日はなんか今来たばっかりじゃけんでとかなんとか言うて、その、話されなかったと、いうとを聞いて、良かったねと言うてですね、何が良かったかと後で思うんですよ。まあいうならば、その人を軽う見ておることであることだけではなくて、その神様の、ほんとの御神意、御都合をそのような事で阻害しておるようなことがあろうと、こう思うですね。
 例えば、受ける話がおかげにならん場合があるかもしれん。受けない話が、かえってほんとの合楽の信心に糧になっていきよるかもわからん。しては、会長の平田さんのお話を秋永先生が後で、まあ聞かれてそれから善導寺の渕上先生の話を聞かれて、もう先日御本部に参られましてね、若先生が入殿のおかげを頂かれてから、もうとにかく合楽のお話でもちきりだと。もう関西からこっち分に、もう合楽の事を話しない者はないというぐらいに、ほんとにあるらしいですよ。若先生がその事を話よりました。すたら今日もやっぱ同じような事を秋永先生が聞いてきてるんです。
 この頃、やっぱりあの、平田さん達と一緒に渕上先生が入殿しとる。すたらもう平田さんが言われる事はもう口を開けば合楽の事だった。しかもそれこそべた褒めなんですね。こうだったああだった、こういう信心さして頂きよる。九州にはこういう教会がある、と言うてそのまあ、しかも手続きは甘木と久留米と、いうならば違う平田さんがですねここのことをべた褒めにされ、まあ聞いとって気分がいいですね。なら、はたしてその気分の良いことがおかげを頂く元になるかどうかね。
 私どもはほんとにそういう時をむしろ、例えば褒められる時には、穴でも有るなら入りたい気持ちにならにゃいけん。ほんとにそこにブレーキを掛ける時には掛けにゃいけん。それを例えばうかつに「はあそうちの」というようなふうな聞き方どんしよんならばほんとにおかげを落すということですよ。むしろ例えば、なら、話の、ここの話のまあ程度の低いところを話して、「はあ合楽の信心はそん位か」と、例えば、なら、軽蔑されても、されることはです、こちらの弾みにもなったり、おかげを頂く元になるかも分からんのですから、どれがおかげになるやら分からん、人間では。
 それこそ成り行きを大事にしていけと。これほど私が私はその主義だと言うておる私がです、ああ、あの人が話しなさったならよかったとか、あの人が話して良かったとかということはない。神様にお願いをしてあっての事。ね。話しちゃいけない事ならば、例えば今日のように話なさいと言われて、話し好きのその人がです、「いえ、今日はご無礼しよう」と言うて話されなかったようにね、ちゃんと話しちゃならん時には、神様が話をさせなさらんのだから、ほんとに私としてです、そら良かったのなんてん、ていううかつな言うちゃならんということです。私どんそげな事が一日のうちどのくらいあるか分かりません。
 そういう些細な事からですよね、いうならおかげが漏れたらどうするか。じつにこの、人を軽う見るな、軽う見たらおかげはないと仰るが、物事でも人でも全て同じこと。ね。例えば人を批判するといったような場合でもそうです。それが向上のための批判、ほんとうの為の批判なら良いばってん、相手を軽う見ての批判といったようなやらは、いよいよ慎まなけりゃ、自分自身がおかげ頂けんと思いますよね。誰がこう、彼がこうと、なら、それもね、ほんとに向上する事のため、それがまたほんとうの事の批判であるなら、私どもそれが向上の元にもなりましょう。人の振り見て我が振り直せですからね。人の不行状見て我が身の不行状になることとも教祖が教えられるくらいですから、でしょうけれども、それがただ軽はずみな軽視してのこれが批判であったりしたら、ほんとに慎まなけりゃならん。金光様のご信心はこういうところからね気付けていかなきゃいけん。
 熊谷さんのお届けを聞かして頂いて改めて私自身もそこんところをちょうど感じておる時でしたから。お互いね、反省さしてもろうてせっかくのおかげがね、そういう些細なところから漏れるようなことがあっては惜しいですからね。そしてそういうところに気付かして頂いて身の詰まったおかげを頂いた時がです、心の中に、いわゆる和賀心が頂ける時なんですよね。  どうぞ。

                   入力者  末永 清和